新海誠監督の最新作、映画「すずめの戸締まり」を公開初日(2022年11月11日)に見てきた。
「言の葉の庭」「君の名は。」「天気の子」に続き、今回も3年ぶりの新海作品の公開でメチャクチャ楽しみにしていた。
映画公開の3ヶ月前には既に小説版「すずめの戸締まり」が発売されており、僕は映画が待ちきれずに小説の発売初日に買って読破してしまった。睡魔と戦いながら読んだので6時間ほど掛かってしまったけれど。
ということで今回は、小説を読んだ上で見た映画「すずめの戸締まり」の感想を僕の独断と偏見で紹介したい。
映画「すずめの戸締まり」のあらすじ
今回は主人公が17歳の女子高生。なので、ガールミーツボーイ作品だ。
と言っても、コテコテの学園ラブコメ要素はなく、わりと終始シリアスな感じ。
あらすじは以下のとおり。
九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年に出会う。
彼の後を追うすずめが山中の廃墟で見つけたのは、まるで、そこだけが崩壊から取り残されたようにぽつんとたたずむ、古ぼけた扉。
なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…やがて、日本各地で次々に開き始める扉。
その向こう側からは災いが訪れてしまうため、開いた扉は閉めなければいけないのだという。
――星と、夕陽と、朝の空と。迷い込んだその場所には、すべての時間が溶けあったような、空があった――不思議な扉に導かれ、すずめの“戸締まりの旅”がはじまる。
Filmarks
つまり今回も、セカイ系だ。
「君の名は。」は彗星の落下、「天気の子」は異常気象と大洪水、そして今回の「すずめの戸締まり」は地震がストーリーのベースなっている。
僕は「どうせみんな助かるんでしょ~?」と分かってる風ドヤ味を一瞬出しかけたけれど、「君の名は。」「天気の子」では何があっても愛する人のために最後まで諦めないゾ展開になんだかんだで心を打たれているので、今回はそれをどう見せてくれるのか期待が高まるばかりだった。
なお、今現在(2022年11月)アマプラでは、冒頭12分が見られる。
全体的な感想:70点くらい
結論から言うと、普通に面白かった。驚くような仕掛けや突き抜け感はないけれど、綺麗にまとまっている感じ。特に泣きはしなかった。
相変わらず映像はとんでもなく綺麗だったし、何より「扉の向こう側」という設定も謎めいていてワクワクした。
子猫(神様)の「ダイジン」も可愛かった。唯一の癒やされキャラだ。まどマギのキュゥべえを彷彿させるようなヤバみがあるので多分賛否はあるけれど、僕は好き。猫、可愛い。
今だからこそ、あるべき作品
3.11から11年経った今だからこそ「もう一度見つめ直して、受けて止めて、前へ歩き出そう」という力強いメッセージ性も良かったと思う。
当然、3.11をファンタジーとして描くのは勇気がいるし批判も出てくるだろうけど、一方で今現在では3.11を全く知らない若い世代も出てきている。
そういう意味で、今だからこそ、あるべき作品にも感じた。
なお、3.11を題材にすることについて、新海監督は以下のように答えている。
――しかし、今回はメタファーではなく直接的に描きました。
新海 怖さはもちろんありました。覚悟がなければ触れてはいけないことなので、企画書を出すときに、「僕たちはこれをやるんだ」とプロデューサー陣と確認し合って製作に入りました。
ただ、震災をモチーフにした物語は小説でもマンガでも実写でもすでに無数に誕生していますよね。『すずめの戸締まり』もそれら震災文学の一端にある作品なので、特別なことをやったという思いはありません。
新海 誠、新作を語る。「『君の名は。』でも 描けなかったものをやるんだと、覚悟を決めて『すずめの戸締まり』を製作しました」
ただし、想定を超えてこなかった
映画と小説をすべて見た上で、もう一度見たいか?と言われると「そこまでじゃない」というのが正直な感想だ。僕は新海作品は大好きだけれど、やはり突き抜け感がないためか今作は僕の想定を超えてこなかった。
全体的には面白かったのだけれど、あえて減点要素を言えばところどころ綺麗事が多くリアリティがないのが気になってしまった(まあファンタジー映画ではあるんだけど)。
下記で詳しく紹介するけれど、特にストーリーの詰めの甘さや妥協みたいなものを感じてしまったのだ。ここ数年で醸成されたポリコレや炎上を回避する表現・演出のせいなのか、やはり突き抜け感が出てこなかった。「え?それでいいの?」という感じ。
もちろん、ポリコレ無視して炎上しろ!と言っているわけではない。限られた制約の中で新海監督の表現の限界の限界に触れることを、僕は期待していたのだ。
その限界が今作なのだとしたら、それはそれで少し残念である。
なおこの手の批判的な意見の表明はフィリップ・マーロウの「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」なので当然僕も撃たれる覚悟が必要だ。しかし実に情けない話で平成生まれの平和ボケを享受している僕には撃たれる覚悟など当然ない。とはいえ「めっちゃ面白かったです!」みたいな肯定100%の感想はデジタルのゴミでしかない。Amazonも食べログも星5.0は信用できない。だから今回はエンタメのために、あえて控えめに撃ってみよう。撃たれないことは祈るしかない。
本物の感動は、二度と得られない
先に小説を読んでしまったからかもしれない。結末を知っていると映画での感動が薄れる。だから映画を先に見たほうがいい。
僕は、映画(というかあらゆる作品)は、初見時のインパクトが最も大切だと思っている。自分の想定を超えてくる瞬間こそ感動を覚えるし、その時間こそが生きる楽しみだからだ。
面白いから2回目、3回目を見ることはある。1回目で見逃した点に気づくこともあって、さらにその作品を好きになることも多々ある。
とはいえ、自分がすでに手の内を知っている状態では一発目の感動を超えることは絶対にない。記憶のない、あの頃の自分には戻れない。
余談:僕の友人たちは、85点らしい
ちなみに一緒に観に行った友達(小説も読んだ)曰く「わりと好きだけど、70点くらいかも」らしい。僕もそんな感じ。ただし僕らは狂ったように映画館に足を運ぶほどの映画・アニメ好きだ。ストックが普通の人より少しだけ多い分、採点が厳し目になってしまっているかもしれない。
ストーリーの設定や演出、音楽にもう少し捻りがあったらなぁ!みたいな、やはり「君の名は。」「天気の子」と比べてしまう僕たちがいた。鑑賞後は友人と「こんなストーリー・設定だったらもっと面白いかも!」みたいな後出しジャンケンで3時間くらい過ごした。そんな設定を反映した架空のストーリーも下のほうに書いておいた。メモ程度だけれど、どうぞツッコんでいってほしい。
ただし、別の友人たちに感想を聞くと85点くらいの評価の人が多かった。彼らは年に1、2回だけ映画館に足を運ぶような、おそらく普通の人たちだ。
彼らが口を揃えて言うのが「『君の名は。』は超えられない!」だった。他にも、印象的な音楽がなかったという感想も多かった。
感想といえば、今作は主人公が女の子なので、女友達の感想がけっこう面白かった。特に草太に対する鈴芽の「一目惚れ」については人によって意見がバラバラだった。「女なんて、あんなもんよ」とか「私は、分からん」とか。そのやり取りを見て僕はずっと笑っていた。やはり恋バナは盛り上がる。
ということで今作は、年に1、2回映画館に足を運ぶ人にはオススメ。ただ、僕にとってはほんの少しだけ薄味だった。
以下、執筆中のためほぼメモ書き。
良かったところ
観察眼と圧倒的な映像美
もう言うまでもないくらい、映像が美しい。言うまでもないけれど、これを言わずして新海作品は語れない。
特に、扉の向こう側の世界である「常世(とこよ)」の夜空の星々の背景が、まさに小説で読んだときのイメージとドンピシャだった。
扉を開けて、スッと常世にズームインする演出は、もはや綺麗を超えて美しい。たった数秒しかないシーンだけれど、これこそが新海アニメーションだと思えるような感動があった。
というのもあるけれど僕がもっと凄いとも思うのが、新海誠監督の観察眼だ。
何気ない日常や生活感を描くのがドチャクソ上手い。
道路の凹みや古臭い旅館の畳、生き物、匂いまでしてきそうなバー、古びた廃墟。もう実写より実写。
行ったことがないはずなのに、僕らがどこかで見たことがあるような風景を徹底的に描いてくる。それに気がつくと鳥肌が立って仕方ない。
僕らと同じ景色を見ているはずなのに……新海誠監督の目には見えている世界が違うのだろう(以前からずっと思ってはいたけれど)。
また、「天気の子」を彷彿させるような雲(特に積乱雲)の描き方、空から人が落ちていく演出には、前作の要素を引き継いでいるようにも思えた。こだわりみたいなものを垣間見た気がする。演出が憎い。
さらに、主人公たちは九州から日々、目的の扉に向けて県を跨いで最終的に東北まで移動していくわけだけれど、山も海も都市も田舎も、日本のどこかで見たことがある風景がたくさんあって、入場料のたった1500円で国内旅行した気分になれた。ラッキー。
ちなみに、ちょこちょこ出てくるGoogleマップのおかげで聖地巡礼はしやすそう。過去最高難易度だけれど。さすがに僕はしないけれど友達の地元が宮崎なので行ける機会があれば行ってみたい。
前向きな、メッセージ性
主人公・岩戸鈴芽の「夢」の描写から、映画は始まる。
夜空に星が煌く世界で草原を歩く一人の少女。見渡す限り誰もおらず、建物には草木が生い茂っている。母親を探しているけれど、見つかる気配がない。
ふと、後ろから足音が近づいてくる。その人は一体──。
そこで目が覚める。
「君の名は。」と同じく、今回も夢を見る描写から始まる。夢がある種の伏線となっている。
正直、僕はこの一連の描写を小説で読んでいたときにピンと来てしまったので、終盤で明かされたその正体に特に驚きもしなかった。文字だとじっくり考えながら読めてしまうからだ。
映画だとサッと流れてしまうので、初見だと案外その正体に気が付かなかったかもしれない。そういう意味で、先に小説を読まないほうが良かった。感動が薄れる。
とはいえ、終盤の夢の伏線回収シーンから、主人公が少女を励ますシーンには感動した。ここの少女の演技がヤバい。泣いちゃう。
「今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る」
と、母親が見つからず絶望している少女に優しく、そして力強く声を掛ける主人公。
「お姉ちゃん、だれ?」
「私は、すずめの、明日」
少女にとって心強い言葉だろう。手には母親が作ってくれたイスもある。ある種の救いだ。
今作「すずめの戸締まり」は、ざっくり言えば「明日を生きるのは他の誰でもない、あなた自身だ」という前向きなメッセージ性が詰まっている。
ちなみに僕はこのシーンで「明日」という言葉が聞き取れなかった。BGMかSEに声がかき消されていたように思う。
なので、「結局、私はすずめ何なの?」と、小説になんて書いてあったっけな~とひたすら記憶を辿るもついにはエンドロールまで見終わってしまった。せっかくの絶対音感が役に立たなかった瞬間である。
それにしても「正体は、実は○○でした!」みたいなトリックは「時をかける少女」「ハウルの動く城」「STEINS;GATE」などで似たような設定を観ているので、現在の僕にほとんど衝撃・感動はなかった。
でも僕が小中学生だったら確実にメチャクチャ感動しているやつだ。勇気を貰えると思う。だから、記憶を消してもう一度見たい。
絶望の描き方
今作の僕にとってのピークは、絵日記の黒塗りシーンだ。
4歳の鈴芽は、それまでの母親との楽しい日常を絵日記として毎日記録していた。けれど、17歳の鈴芽が見つけたその絵日記は「3がつ11にち」を境に、以降のページがすべて黒塗りになっていた。
間接的表現とはいえ、キツすぎる。
さらに扉の向こうに入った鈴芽の、
「おかあさん、どこ?」
というセリフと一連の流れ。なんともやるせない気持ちに、こちらも泣けてくる。アニメとはいえ悲しむ子供の姿を見るのは心が裂けそうになる。声優も凄すぎる。
けれど、僕にとっては間接的に絶望を描くこのシーンがとても印象的だった。
子供たちにこそ、響く
完全にネタバレだけれど、主人公の鈴芽の母親はすでに亡くなっている。
映画では固有名詞を用いていないけれど、小説版では明確に「2011年に日本の東側で列島の半分が揺れるような大きな地震があった」と書かれている。
鈴芽は、あの震災を生き残った一人なのだ。それまでの当たり前の日常や学校、家や街、友達、家族が一瞬で失われたショックは計り知れない。
どちらかと言えば、主人公の鈴芽のような辛い過去・背景を抱える子供たちにこそ響く映画なのではないかと思う。今現在絶望を感じている子にとっては心強い味方・救済になる映画かもしれない。
そういう意味で、今作のストライクゾーンは前作に比べればずいぶん狭いように思う(良し悪しは別にして)。
現時点では分からないけれど、「君の名は。」「天気の子」で救いきれなかった層に深く心に刺さることになるのかもしれない。
だとしたら、将来の彼らにとっての良い作品になってほしい。子供の頃の僕らにも、心の支えになっていた作品がたくさんあったはずだから。
メインテーマが良曲すぎる
音楽の力は偉大だ。アニメの魅力を何十倍にも膨らますことができる。「君の名は。」「天気の子」も、RADWIMPSの音楽の力が爆発している。
そして今回も、メインテーマ『すずめ feat.十明』が良曲すぎる。
メロディがマイナーペンタトニックスケール(ロックやブルースに頻繁に使われる)なので、野田洋次郎はギターで作曲したのかもしれない。
ペンタトニックスケールは民族音楽チックになるので、どことなく日本っぽさを感じるかもしれない。この曲(Dマイナー)だと「レ・ファ・ソ・ラ・ド」がメロディとして使われている。ピアノやギターで適当に弾くだけでも民族音楽っぽさを感じられると思う。
そして相変わらず、野田洋次郎の歌詞には敬服の念に堪えない。
なんと「心臓」という名詞を、
君の中にある 赤と青い線
RADWIMPS – すずめ feat.十明 [Official Lyric Video]
それらが結ばれるのは 心の蔵
と表現するバケモノである。言葉選びが上手すぎる。
Aメロからのサビ(後半のほう)。
君の手に触れたときにだけ震えた
RADWIMPS – すずめ feat.十明 [Official Lyric Video]
心があったよ
この瞬間、曲の終盤にも関わらずAメロの「心臓」が伏線だったことが判明する。なんと「心」で回収しに来やがった。
なんということだ。
日本語の美しさを極限まで引き出しながら曲に命を吹き込んでいる。メロディの制約がある中、心地良い語呂感とともに、この世界観を構築できる技術は天才としか言いようがない。
まさに、こちらの想定を超えてくる瞬間だ。
何度読んでも、「君の手に触れたときにだけ震えた心があったよ」の語呂が良すぎる。初めて聞いたときは感動しすぎてこのフレーズだけを100回以上も歌ってしまった。みんなも今歌ってみてよ!
作詞はセンスもあるだろうけれど、その裏側では徹底した言葉の研究と削ぎ落としの能力が必要だ。足しすぎても引きすぎても野暮ったくなるからバランス感覚が大事になってくる。
どんな人生送って来たんだ?
鈴芽と環、ダイジンと鈴芽
ダイジン = 幼い頃の鈴芽というキャラクター設定が、この作品に深みをもたらしている。
4歳で親を亡くした鈴芽を、環は「うちの子になろう」と抱きしめ迎え入れる。そして作中でサダイジンに憑依された環が鈴芽に「私の人生返してよ」と言い放ち、拒絶する。
一方、鈴芽はダイジンに「うちの子になる?」と言い迎え入れる。その後、草太を奪ったダイジンを鈴芽は強い言葉で拒絶する。
両者の構図は同じ、追体験だ。つまり環と同じ体験を、今度は鈴芽がすることになる。
ダイジンの理不尽な行動を経て、鈴芽は今までの環の苦労を理解できるようになる。まさに鈴芽の成長そのものだ。
映画をひと目見だだけでは分かりにくいかもしれないけれど、上記ような登場キャラクターの作品上の存在理由の悟ると僕はまたしても、こちらの想定を超えてくる感動を覚えるのだ。
ツッコミどころ多め?
普通に面白いのだけれど、とはいえツッコミどころが多かったのが気になってしまった。
「そんなツッコミは野暮だろう」と言う人がいる。そんなもの、作品の流れと雰囲気に整合性があれば、それが理由になることくらいは僕も分かっている。そもそもファンタジーアニメ映画に教訓があるべき的な考え方がナンセンスかもしれない。けれど、僕は映画を見終わった後の考察が大好きだ。「面白かった!」で終わらせたくない。
ここから先が映画の醍醐味の一つなのだから。
もっと深掘りしてほしかった
「すずめの戸締まり」には3つの柱がある。ヒロイン・鈴芽の成長、ラブストーリー、災害(地震)を防ぐ戸締まりだ。
これは小説を読んだときも思ったけれど、その3つの柱のどれもが中途半端に終わった感が拭えない。
「戸締まり」が示すように「過去の出来事を受け止めて、前に進む」というメッセージ性は理解できる。けれど、もっと人物やストーリーを深掘りしてほしかった。
特に演出の色が濃すぎて、肝心の内容が薄くなってしまっている感がある。今作は、もう一度見てみたくなる深みがあまりなかった。
これについては長くなるのでできたら後日、詳しく書きたい。下の方の架空ストーリーには反映しておいた。
そのシーン、本当にいる?
注意して鑑賞しないと分かりにくいけれど、「君の名は。」「天気の子」では、約2時間の映画の中に隙間(無音)時間が驚くほどない。
一つの風景・人物を長い時間(と言っても数十秒)視聴者に見せたり、定点カメラのような動きの少ない描写はほとんどない。隙間という隙間は音楽で埋め尽くされ、画面には常に動きがある状態だ。風景や心理描写の多い「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」などとは対称的と言えるかもしれない。
これはもはやTikTokやYouTubeなどのショート動画と同じ構造だ。動画の主旨と関係のない不要な部分がカットされていると、全体的にテンポ良く見ることができる。
今回の「すずめの戸締まり」は、欲しいと思ったシーンがカットされ、要らないと思ったシーンが長かったりした。
特に最後のエヴァンゲリオンみたいなシーンでは、わりとあっさり倒しちゃうので「えっ、終わったの?」感が否めない。
もう少し鈴芽という人物にフォーカスを当てても良かったんじゃ、とも思った。
これについても長くなるので後日、詳しく書きたい。
印象的な音楽が、ほとんどない
曲単体の良し悪しではなく、劇伴(映像に合った)音楽としてあるべき音楽か、という視点の話。
個人的には『すずめ feat.十明』以外、特に印象的な音楽がなかった。今まで過去作はサントラを買ってきた僕だけれど……今回ばかりはスルーしようかと思ったほどだ。
印象的なのは序盤のジャズっぽいコミカル曲と後半の空に行くシーンの曲くらい?今作はあえて目立つ曲を排除したのかもしれない。
けれど「君の名は。」「天気の子」であれだけ派手にやったのだから、今作も印象的な歌モノを用意しても良かったんじゃないかと思った。
「音楽が邪魔で映画に集中できない」という意見もちらほらあったけれど、最近ではそんな声もあまり聞かなくなった気がする。近年の新しい映画のスタイルの一つとして人々に受け入れられつつあるのかもしれない。
少なくとも「君の名は。」「天気の子」の音楽はストーリー上の必然性が感じられてテンポ良く見ることができた。
特に「君の名は。」の『夢灯籠』『スパークル』、「天気の子」の『祝祭』『グランドエスケープ』は、劇中歌として最高だった。今聴いても鳥肌モノだ。
そういう意味で、今作は『すずめ feat.十明』はマジで良かった。
だからこそ、もっとプッシュして欲しかった。
同じメロディを使った別アレンジの曲(ピアノソロ版、ストリングス版・シンセ版など)を作中でそれとなく散りばめておいて、最後のミミズ退治あたりでメインテーマとしてドカン流しても文句ないくらい世界観が素晴らしい曲だと思う。大編成のオーケストラがあってもいいレベル。
『カナタハルカ』
そしてこれは書くか迷ったけれど正直に書こう。
『カナタハルカ』のサビを最初に聴いたときは正直、ズコーッとなってしまった。
特にサビ前半8小節(1:25~)のメロディがどこか素人クサイのだ。次の展開を簡単に予測できてしまう(特に3小節目の4拍目でケーデンスが読める)。同じように感じた人いたんじゃない?いないか。
正直、この曲だけ少し浮いてしまっている感が否めない。
たいていの音楽は編曲(アレンジ)でいくらでも雰囲気を盛ることはできる。けれど、骨格のメロディの存在感だけはどうあがいても隠し通せない。だからもう少し撚るか、別の曲を当てたほうがよかった気がする。
ただし、サビ後半(1:49~)とCメロ(4:06~)の展開・工夫は、RADWIMPSらしさ全開で僕は好きだ。特にサビ後半のストリングス版はすごく良かった。これよ、これ。
未使用曲『Tamaki』
作中で使われていない『Tamaki』という曲がある。文字通り、環さんをテーマにした曲だ。
なぜ本編に使われていないのかと思えるほど、全体的に良曲だ。
けれど、Aメロの歌詞があまりに直球なので味わい深さがあまり感じられない。特に「あなたさえいなければ」の字余り感というか、素人が取ってつけたような安直な表現が気になってしまった。
00:29~のギターの音とフレーズ、01:10~のサビがとても良いと思えた分、少し残念。
未使用曲『すずめの涙』
こちらも作中未使用曲『すずめの涙』だ。
この圧倒的な良曲の匂い。もはやこの曲こそエンディングに相応しいんじゃないかと思えるほど、僕は好きだ。
特にピアノの伴奏とサビのメロディの掛け合わせが素晴らしい。Bメロ(01:01)からサビは非常に良い。等身大の歌詞も絶妙だ。
強くなりたいと 願えば願うほど
YouTube:すずめの涙
なぜだろうその眼は 私を弱くさせる
泣いてなんかないよ 泣くわけがないでしょ
あなたが見てるのは すずめの涙
神様も知らない すずめの涙
過去を受け止めて、前に進もうという、この作品のテーマの盛り上がり過ぎないセンチメンタルのさじ加減がどストライクな感じだ。
「君の名は。」「天気の子」をサウンドを彷彿させる1番終わりのストリングスの導入も良い。
欲を言えば、最後のサビは先にCメロの展開を作ってから転調してほしかった。劇伴(映画で使われる曲)にしては展開の幅に物足りなさを感じた。
あとこの曲はメチャクチャ『正解』っぽい。劇伴というより普通の歌モノに近い。
ギャグが少ない
コミカル要素は主に「喋る猫」「椅子にされてしまった相手との恋」「走って喋る椅子」だ。この3つだけが視聴者の心の拠り所になっていると言ってもいい。
全体的にシリアスの比重が高い作品のためか、そちらに引っ張られ気味で、その他の笑いやギャグ要素が少なく感じられた。ストーリー全体で少しバランスが悪く思えた理由の一つがそれかもしれない。
面白いシーンを強いて言えば、マクドナルドで子供たちが「(猫が)喋った~!」と叫ぶシーンとか鈴芽がイス(草太)を雑に持って切符を買うシーンくらいがだろうか。
「君の名は。」「天気の子」ではシリアスながらも作中で笑える要素がところどころあった。それに比べると今作は、子供にも分かりやすい「クスっと笑える面白シーン」が少なかったと思う。
回りくどいから正直に言うと、「ウケを狙ったがスベった」感が出てしまっている。普段の僕はけっこうゲラだけれど、ほとんど笑えなかったほどだ。
分かりやすいところで言えば、個人的には「君の名は。」のクライマックス手前で、瀧がやっとの思いで三葉に入れ替わることができて、おっぱいを揉みながら感激しているのを四葉にまた目撃されるシーンくらいの温度感が欲しかった。映画館ではみんなつい笑ってしまっていた。ほっこりする。
まあ、胸揉みは今(2022年)だったらポリコレでボツらしいけれど。
意図的に作風を変える気持ちはありませんが、エンタメに対する時代の許容もずいぶん変わりましたよね。例えば『君の名は。』を公開した翌年に映画界では”#MeToo運動”が起こり、それをきっかけにいろんなムードが変わった。
『君の名は。』で(立花)瀧(たき)が目覚めるたびに体が入れ替わった(宮水)三葉(みつは)の胸を揉むシーンも、今だったらボツにしますね。夢だし、そもそも自分の体だから問題はないという道具立てはしていたけど、今の観客は受け入れないとジャッジしたでしょう。
だから、これから『金曜ロードショー』などテレビで『君の名は。』が放送されるたびにどう思われるか心配もしなくちゃいけない(笑)。それくらい許される表現と許されない表現がたった6年で変わりました。
新海 誠、新作を語る。「『君の名は。』でも 描けなかったものをやるんだと、覚悟を決めて『すずめの戸締まり』を製作しました」
とりわけ、鈴芽という人物がより分かるギャグ要素(クスッと笑える程度でいい)がもう少し欲しかった。数も質も、両方必要だ。
どうも鈴芽が良い子ちゃんすぎない?(冷静に見ると、ド不良少女だけれど)
主人公が真面目な(?)女の子だから分かりやすいボケはやりにくいけれど、鈴芽の性格・人柄がつい滲み出てしまうようなギャグ要素は欲しかった。ツッコミでもいい。
なお、鈴芽がイス(草太)に座るシーンと立つシーンはギャグなのか新海誠の変態なのか、マジで僕にはよく分からなかった。生まれて初めて映画を感情ゼロで見た。
鈴芽の母親のことと環さんに気を使って生活していきたことを考えると、僕には鈴芽が良い子すぎるとしか思えなかった(学校サボったけどな)。
だから環さんに本音をぶつけるシーンあたりで、本格的に鈴芽が不憫にしか思えなくなってきた。ギャグとか言ってる場合じゃない。
草太(イス)も人間の姿ではないから、鈴芽の心の支えになっている構図が分かりづらい。イスの状態がギャグではなく、ただ悪ふざけだと一瞬頭を過ってしまう。
だけど「草太さんのいない世界が、私は怖いです!」と鈴芽が告白するので、僕は「ほんなら応援するかぁ」と少しモヤモヤしながら見ていた。
でも正直に言えば、終盤あたりで僕は鈴芽を応援したい気持ちよりも、もうこれ以上鈴芽を苦しめないでくれという切実な願いが勝っていたように思う。ギャグとか言ってる場合じゃない(だからもっと散りばめておいてよって感じ)。
戸締まり、という作業ゲー
今回はひたすら「戸締まり」をしていく。
ストーリーの序盤以降、「次に何が起こるんだろう?」という展開の予測不能さがないので、「次も県をまたいで、戸締まりするんだろうな」で終わってしまう。
これは小説を3割くらい消化したときにも思ったけれど、ちょっと退屈だった。
ついには、東北まで行って戸締まりをして終わった。
終わった!
懐メロ要素、いる?
大学生の芹澤という男が出てくる。芹澤は懐メロが好きで車の運転では常に懐メロを流す。
でも、『ルージュの伝言』とかが流れた瞬間、僕はなんか冷めてしまった。ベタすぎて。
新海監督が「魔女の宅急便」に影響されて作ったのも理解している。けれど、単純に映画としては余計なノイズにしか思えなかった。懐メロ好きという設定なんて血液型A型くらいの情報量しかない。本当に必要な要素だったの?
実は、懐メロに詳しいことが世界を救う鍵になる、みたいなストーリー上のギミックがあれば納得だけれど、別にそういうのはなかった。
懐メロを流す時間があるなら、RADWIMPSを流してくれ!懐メロにフォーカスする暇があるなら、芹澤と草太の関係を表すエピソードを一つでも盛り込んでくれ!
それにしても芹澤、良いキャラしてたなあ。見た目は半グレだけど良いやつオーラがぷんぷんしやがる。往復14時間も無料で車を出す決意を秒でするやつなんていないぜ?
良い教師、決定だろう。ただ、2万円はすぐ返せよ。
『すずめ feat.十明』の歌詞について
メインテーマ『すずめ feat.十明』の歌詞はメチャクチャ良い。僕は好きだ。
けれどタイトルが『すずめ』と判明したときに(しばらくタイトルが不明だった)、僕は鈴芽自身の思いを乗せた歌詞というよりも、実は鈴芽の母親が鈴芽に向けて書いた歌詞でしたギミックであったら……とか思ってしまった。
イメージはこんな感じだ。
(母親である)私はもうこの世にいないけれど
鈴芽と過ごした大切な記憶は
決して消えることはないの
言葉にならない想いが生き続けるの
腰を下ろして 手を心に触れてみて
私はずっと 鈴芽のそばにいるよ
忘れないで 未来なんて怖くない
もうあなたは大丈夫だから
今日を生きて 明日を生きて
光の中で あなたは生きるの
さあ 立ち上がって
いってらっしゃい
このように解釈できる歌詞だったらどうだろうか。もちろんこれでは歌詞としては直接的表現すぎるので、残りは野田洋次郎の抜群の作詞センスに(勝手に)お任せするとしよう。
一応「腰を下ろす」は黄色いイスのこと指したつもりだけれど、他に良い表現が思い浮かばなかった。他は小説などより抜粋。
いやまあ、ただ思っただけだ。今作では母親のことを受けとめて前に進む鈴芽の意志がテーマだから、それはなしか。
いや、方向性はけっこうよくない??
イケメンだから、好きなの?
鈴芽が草太を好きになるのが唐突すぎる件。
というか、お互いに好きになった明確なシーンがなくて結構強引に感じた。
小説を読んでいたときにもメチャクチャ思った。
「えっ!鈴芽、いつ草太を好きになったの?」
「草太!君もか!いつ鈴芽を好きになったの!?」
小説の発売初日に買って睡魔と戦いながら読んだから読み飛ばしてしまったのかもしれない。と思ったけれど、映画を見ても同じように思った。全然そんなことなかった。
鈴芽「草太さんのいない世界が、私は怖いです!」
セリフだけ見れば、なんて健気な子なのだと思える。誰だって、自分のことをこんな風に思ってくれるのはこの上なく嬉しいはずだ。
けれどストーリー上、どうしてそこまで草太に思い入れが強いのかが分からない。昨日今日あったばかりのどこの馬の骨とも知れないイスを好きになるのが、なんだか受け入れがたい。
「天気の子」のように、たとえ異常気象で東京が水没しようとも、ビッグマックをくれた(冗談っぽく書いているけれど、お腹が空いている主人公の命を救った行為)目の前の大切な人を守りたい・君の大丈夫になりたい、みたいなストーリー上の主人公の強い動機や愛を感じられなかった。
とりわけ「天気の子」では、1:24:55あたりの刑事・安井のセリフで理由が描かれている。
「少年(帆高)が(警察署から)逃げ出したその理由がですね、どうも一緒にいた女の子を探しとるんじゃないかと。」
(中略)
「ただまあ、彼は人生を棒に振っちゃってるわけで。そこまでして会いたい子がいるってのは、私なんかには……。何だか、うらやましい気がしますな」
まさに視聴者の代弁である。そして、主人公・帆高を応援したくなる理由でもある。
今作は主人公が女の子だ。僕が男だからなのか?好きになった理由が分からなかった……。
確かに作中で何度か鈴芽が草太に助けられたというのはあるけれど、他に思い当たる理由が「一目惚れした。イケメンだから好き。ワンチャン付き合いたい」くらいしかない。
なんか鈴芽の動機が、スケベ。
見よ、この表情。完全に一目惚れである。
人を好きになる “きっかけ” が「一目惚れ」というのは自然だ。そこは全く否定しない。
しかし、この人を命を掛けても守りたい・助けたいとする理由が「一目惚れ」「イケメンだから」は、新海作品(というか「君の名は。」「天気の子」の次のディザスターもの映画)としては、納得がいかない。
新海誠にしかできない恋を描いてほしかった。一目惚れだとしたら安直すぎて他の作家にもできてしまう。
いやまあ、分かるけどね。一見完璧っぽい年上イケメンイケボ大学生が寝相が悪かったり少し抜けてる感じが女の子にとってキュンと来るのは。女友達も言ってた。
それに「恋は理屈じゃない」なんてことは義務教育の教科書に書いてある(?)。
そもそも人が人を好きになる理由のたいていは、言葉で言い表せない「なんとなく」「雰囲気」「流れ」「フィーリング」なのだから。理屈なんて後付け。ロマンに水を差すのも野暮だ。それは分かっている。
たとえば「君の名は。」だって、お互いを好きになる明確なワンシーンはない。
身体が入れ替わる現象をきっかけに、お互いのことを少しずつ意識し始めて相手の取り巻く環境や夢や悩みに触れていくことで、お互いの存在が徐々に気になり始めた単純接触効果的なやつだ。
特に三葉は「生まれ変わったら、東京のイケメン男子になりたい」という夢を叶えつつあったのだから尚更である。
さらにその相手の記憶を失っていくもんだから、気になって仕方ない。
というかそもそも、お互いが惹かれ合っていく過程を映画にしているが「君の名は。」だ。だから、お互いが好きになった理由は、「映画の内容そのもの」ということになってしまう。
話を戻そう。
一応、後日僕の女友達は「人知れず世界を守ってる草太に対する尊敬の気持ちもあるかも」と言っていた。言い得て妙だ。それは、そう。
「ただ正直、吊り橋効果もあるはず」とも言っていた。それは、そう。
また別の女友達に訊いてみたら、
「冒頭の、常世に迷い込んだ小さな頃の鈴芽が見た人影(夢はそこで終わったけれど)の正体を、草太に重ねて見たからじゃない?」
「本人は自覚がないかもしれないけれど、運命を感じたのかもしれない」
と言っていた。
なるほど、運命か。良い考察だ。「運命」という言葉は、僕には出てこない。降参、完全に僕の負けな気がする!
でもイケメンは前提らしい。それは、そう。
ここで、新海監督のインタビューを見てみよう。
――別のインタビューで、「運命の赤い糸のような恋愛関係を描くことに興味を持てなくなった」との発言がありました。『ほしのこえ』から続く、淡く切ない新海節は、もう描かない?
新海 いやいや、今回もちゃんと恋愛は描いてますよ。終盤で鈴芽が”好きな人のところに行く”といったことを叫ぶシーンがありますが、これも「ここは恋愛じゃないでしょ」とスタッフ陣に反対されました。でも僕としてはああいう場面で好きな人のもとに行こうとしてほしいなと思ってあのセリフを入れたんです。
とはいえ、『君の名は。』を作った40歳くらいの頃の強度では、男女の関係を考えられなくなったのは確かにそうです。さすがにもう50歳ですからね……。
――本作はいよいよ男女のすれ違いが描かれず、古参の新海ファンは残念かと(笑)。
新海 それは常に若い作家が出てきますから、そちらに託していただいて。僕の次作がどんな話になるかわかりませんけどね(笑)。
新海 誠、新作を語る。「『君の名は。』でも 描けなかったものをやるんだと、覚悟を決めて『すずめの戸締まり』を製作しました」
分かりやすい恋愛に持って行きたかったらしい。なるほど、年齢の問題もあるのか。
ただのナンパだった説
そういえば、今思えば草太、鈴芽が美人だったから声を掛けたんだろう?僕には分かるぞ。
家業として閉じ師をやっているんだ。ヘマをすれば人が大勢死ぬわけだから廃墟の場所くらい念入りに下調べしているはず。だからわざわざ人に聞かなくても本人も明確な場所は知っているだろう。Googleマップもあるし。
明らかにナンパである。カワイイは、正義。
ちなみに漫画版では、鈴芽が草太に見入ってしまい目の前で自転車を止めしまったため、
草太「……どうかした?」
鈴芽「ミ…ッ道に…!迷ってるのかな~と──…!!」
という、草太のナンパではなく、鈴芽の一目惚れという構図が分かりやすい流れになっている。
愛する人を助けるのに、大きな代償がない
おそらく、ここが僕が一番気になった部分である。
たとえば「君の名は。」では、二人が出会うためには「惹かれ合っていた相手の記憶が消えること」が大きな代償であった。
「天気の子」では、晴れ女(ヒロイン)を救うためには「異常気象による東京の水没」という大きな代償があった。
愛する人を助けるのに支払うべき「大きな代償」があるからこそ、視聴者は考えさせられ、主人公に感情移入し、世間を賑わす作品になったはずだ。
今作「すずめの戸締まり」には、それがない。なんの大きな代償もない。6日くらい前に会ったダイジンの再要石化くらいだ。
たとえば「天気の子」の冒頭15分あたりで「自然を左右する行為には必ず代償が伴います」という怪しい占い師のセリフが布石として存在した。
だから今作も、人の力で自然をコントールする行為(草太を救う)に対して、視聴者が考えさせられるような、大きすぎる代償がほしかった(地震は原因がミミズなので「自然」と呼べるか怪しいけれど)。
一応作品的には「東京の大地震を防ぐこと」と引き換えに「草太が要石になる」ということが代償はなのだけれど、僕には「大きな代償」に思えなかった。なぜなら、要石となる草太の代わり(代償)がすでに存在しているからだ(ダイジンとか。というか生き物なら何でも良さそう。明確な条件は不明だけれど)。
たとえば「天気の子」のときは、晴れ女であるヒロイン・陽奈が東京の水没と引き換えに “必ず” 犠牲にならなければならなかった。主人公・帆高にとって陽奈は唯一無二の存在なので、大きすぎる代償だ。
今作は愛する(犠牲になる)人の「代わり」が存在するがゆえに、代償としては小さく思えてしまう。
そんな感じで特に代償など感じられぬまま、終盤のエヴァンゲリオン戦(それっぽいので僕が勝手にそう読んでいる)でイケメン大学生がわりとあっさり助かってしまう。
僕はこれまでの人生で自分でも最も驚くほど、カタルシスを感じられなかった。なんか、あっけねえ!
イケメン大学生が助かった後で、
「鈴芽、そういえば言ってなかったけれど、僕を助けると実はこんな代償を伴うんだ……!(ダイジンの要石化以外で)」
みたいな設定もなかった。まあ、小説になかったから知ってはいたけれど。
さらに、イケメン大学生は助かってほしいけど、ダイジンは犠牲になっても仕方ない・問題ない、みたいな演出がメチャクチャ気になった。
- 「イケメンが犠牲になりかけたときはメチャクチャ悲しんでたじゃん!」
- 「ダイジンの犠牲は無視気味じゃない!?」
- 「なんか人としての道徳とか……心の痛みみたいな演出とかないの!?」
- 「そんな時間もない感じ?」
- 「『いや、論理的にどちらも助けるって無理だろ』みたいな理屈タイプなの!?」
- 「主人公だろ!『それでも私は両方を助けたい!!』みたいな、最終的に片方を犠牲にする必要があるとはいえ、どちらも助ける感じを出してくれ!!」
と、素直に思ってしまった。
何かを犠牲にする痛みとか葛藤とか……そんな心の動きに人は感動するんじゃないの??最後の最後はあっさりなのは、なんでなん!?
まあ、たぶん演出のせい。そこでRADWIMPSの曲を流せば大半の人を騙せる(商業的には大成功する)から……。でも僕は最後まで抵抗するぞ!
「いや、もともとダイジンのせいだから自業自得だろ!」という声も聞こえてきそうだけれど、どちらかというと犠牲の存在は序盤で要石を抜いてしまった主人公・鈴芽のせいである。だからむしろ、あの流れなら主人公自身が犠牲になるなら納得だ(テーマ的にはあり得ないけど)。
という理由もあり、終盤のシーンはどうも盛り上がりに欠けた気がした。いや、音楽とかで盛り上がってはいたけれど「あぁ、そうですか。頑張ったね」で終わってしまった。
強いて言えば、芹澤のアルファロメオが廃車になりかけたことが大きな代償だろう。修理費も相当高額だと思う。可哀想に。
でも2万円はちゃんと返せよ。
鈴芽の身体能力が異常
鈴芽の身体能力がヤバい。
見よ、この身の熟し。カッコ良すぎる。実はとんでもないパルクールマスターなのかもしれない。こんなものを街中で見かけたらついファンになってしまう。
ちなみに御茶ノ水は今現在(2022年11月)は工事中なので聖地巡礼しても映えにくいと思う。角度次第かな。
いやしかし、こんなもの序の口だ。
そもそもイケメンのために学校をサボって日本列島横断するのは行動力がカンストしている。通常の人類であれば宮崎でフェリーに乗ることさえ躊躇する。
さらに、20kmの距離を走って行こうとする決断の早さも異常だ。一応調べてみたらフルマラソンのトップ選手でも1時間は掛かる距離だ。体力への自信がヤバい。
なんというか、もはやスタンドを発現しても不思議でない精神力を持っていると言っても過言ではない。
毎日自転車で宮崎の激坂を漕いでるからだろうか。鍛え方が違うらしい。どうやら鈴芽には無限の体力が存在する。なんてロック。
入浴シーンなんか全然エロく見えなかった。むしろ戦場へ赴く武士のような逞しさを感じた。学生服に着替え直すシーンは制服が最強装備の鎧にしか見えなかった。髪は下ろしたほうが僕は好きだけれど。
そんな能力を持ってして、富士山を2回も見逃してしまうのはなんでなん!(ここが一番の良いギャグ)
ところで、鈴芽のプロフィールが作中で特に言及されていない。趣味や部活、夢、悩み、好きなモノ、嫌いなモノがほとんど分からない(小説に書いてあったっけ?)。普通に気になるのに。あと、いつもポニーテールなのは母親の真似なのだろうか。
鈴芽の行動を冷静に見ると、実は普通に不良少女である。ロック!
草太、セリフがいちいちダサい
「僕は元の姿に戻るんだあ!」
あんなセリフ言わねえよ、って近所の高校生が言ってた。たしかに。
というか新海作品の登場人物のセリフは毎回直球すぎて(「青空よりも、俺は陽菜がいい」とか)、ちょっとダサ寒さを感じてしまう。もう少し捻った言い回しはないものかと考えたりもするけれど、小中高生には分かりやすく響くのかもしれない。ブームの火付け役が理解できなきゃバズらない。
ちなみに僕は、草太の「(イスに)馴染んできた!」でメチャクチャ笑った。今年一笑った。一番のお気に入り。あれギャグだよね!?本人は至って真面目なのだろうけれど、シュールさの極み。
イスに馴染むってなんだよ!
そもそもイス、いる?
冷静に考えたら、イケメン大学生がイスになる要素は必要だったのだろうか。
もちろん、全体的にシリアスな作品なので、コミカル要素を入れてバランスを取りたいとか、グリム童話「蛙になった王子」のオマージュというのは理解できる。
イスが母親の形見という点も、とりあえず理解できる。
ただ少なくとも、「イスに恋するってよく分かんねえよ」って近所の高校生が言ってた。たしかに。
別にイスに変身する要素がなくても物語は成立する。逃げた猫を追いかける展開さえあれば、どうせ後はだいたい同じなのだ。
というか、イスより人間の姿のほうがラブストーリーとして感情移入できるので、普通で良くない?
イス……そんなにいる?
鍵穴のグッズ、いる?
映画館のグッズコーナーで扉の鍵穴模様のグッズがたくさん売られていた。
多分、作中でそこまでフィーチャーされていないので売れないと思う。でも商売魂を感じた。好き。
あと母親の形見はイスじゃなくて、たとえば鈴芽はいつも前髪を留めているから髪留め・髪飾りとかでも良くない?
グッズ化しやすいよ。
余談:もしも「すずめの戸締まり」が、こんな設定だったら
まず最初に言っておきたい。この設定は、売れない。
そもそもアニメ監督は、僕ら素人の1万倍以上考えてアニメを作っている。それ以上かもしれない。
特に多くの人を巻き込んで作る商業アニメ映画作品は、絶対に失敗するわけにはいかない。だから、大衆にウケるようにマーケティングをして脚本も演出も音楽もすべて調整する。
たとえば「君の名は。」では、最終的に2人が再開してしまった。「そこまで描いちゃだめだろう」と当時新海ファンから声が多くあった。
けれど、それだと売れないのだ。逆に分かりやすいハッピーエンドにしたからこそ興行収入250億円の作品になった。
その上で。
映画の感想を友達と語り合っていたら「そういう設定も面白いかもね~」みたいなアイデアがいくつか出てきて長い時間かなり盛り上がった。
ということで完全に素人目線ではあるけれど、そのときのアイデアを無理やり繋げた架空のストーリー「ぼくのかんがえたさいきょうの、すずめの戸締まり」を紹介したい。
なお、スタバで書いたので、セリフなどはテキトー。良い感じに補完しながら読んでみてほしい。
テーマと代償
まず、テーマを「過去を受け入れること」「自分の意思で前に進むこと」に絞る。
それから終盤の、大好きな人を助けるための大きな代償として、鈴芽自身の意志で母親を要石(人柱)として犠牲にすることを選ぶ、という強い設定を導入したい。「母親を失ってでも、好きな人と一緒にいたいのか?」と鈴芽に問わせたい。こうすることで「今までの過去を受け入れて、前に進もう」というメッセージ性をより強く担保することができる。
「何の犠牲もなく、すべてが上手くいく」なんてことは世の中に存在しないのだから、そんな薄っぺらい設定にはしたくない(こういう思想を入れると売れない)。
あとギャグもそれとなく増やす。
【序盤】イスの呪いは、排除
鈴芽と草太の会いからダイジンが初めて喋るシーンまでは同じでOK。
鈴芽に「うちに来る?」と言われたダイジンが鈴芽の愛を感じて大好きになる設定もそのまま流用。
鈴芽の体力無限設定については、鈴芽を陸上部の部長とかにすれば解決しそう(雑)。全国大会出場予定の選手でもいい。ポニーテールが陸上部っぽいのでビジュアルは問題ないだろう。
その後のイスになる呪いの要素は完全に排除する。
イスの代わりに、ダイジンが草太の身体と記憶を4歳の頃に戻してしまう呪いをかける。別に何歳でもいいのだけれど、3.11の頃の鈴芽(4歳)と同じ年齢にする。鈴芽にとっては過去の自分を彷彿することになる(記憶は今のままでもいいかな)。
よって、鈴芽は草太(4歳)と一緒に戸締まりの旅をすることになる。
なお、草太(4歳)は、自分の家計が家業として閉じ師をしている事自体は知っている設定だ。ただし閉じ師としての能力はかなり低下している状態(なので鈴芽の力が必要になる)。
鈴芽との出会いや会話の内容も忘れてしまったので(正確には記憶に蓋をされた状態。徐々に戻る)、鈴芽が草太に現在の状況を教えながら旅をする形になる。
過去を受け入れる、を補強する設定
次に、鈴芽の設定を少し変更したい。
鈴芽は、震災のショックで母親に関する記憶が失われている(蓋を閉じている)という状態にする。17歳の現在も母親のことを思い出す(写真を見たり話を聞く)と、ひどく頭痛がしてしまうため思い出せないのだ。
すなわち未だに過去(母親の死)の現実に向き合いきれず、記憶に蓋を閉めたまま12年間を過ごしてきたという状態。
これを最終的に「過去(母親の死という記憶)を自らの意思で受け入れる」というテーマに繋がるようにしたい。
後ろ扉の、もう一つの使い方
そして、扉の設定も変更したい。
公式設定では、扉の向こう側「常世(=死後の世界。すべての時間が同時にある)」は、見る人によってその姿を変える、となっている。鈴芽にとっては「震災直後の故郷の街」だ。そこで母親を探し続けている。
この扉に、さらに設定を追加したい。
常世に存在するものを現世(=鈴芽のいる現実の世界)に呼び戻すことができるという設定だ(そのような使い方もできてしまうというだけ)。
つまり過去の人物すらも現実に呼び戻せる=死者(鈴芽の母親)を蘇らせることすら可能になるということを意味する。
ただしこれには大きな代償がある。もちろん、地震だ。
常世に存在するものを現世に持ち出すと常世の主であるミミズが怒り、現世で大地震を引き起こす。この地震が、現実の日本で何度も起きた過去の大震災と完全にリンクしているという設定だ。
つまり死者を蘇らせるには、現実世界でそれ以上の犠牲を伴ってしまうのだ。
そのような危険性があるため、閉じ師の家系は代々「死者を蘇らせてはいけない(=それ以上に犠牲が出る)」と教育・訓練される。一般人を巻き込まないように、かつ誰にも存在を知られないようにひっそりと仕事をしている。こうすることで、閉じ師の役割の説得力が増す。
鈴芽と草太は戸締まりの旅を続けていくにつれ、そのような後ろ扉の真実を知ることになる(サスペンス感が増す)。
道中、戸締まりをしてきた影響で、鈴芽は何度も母親の記憶がフラッシュバックし頭痛に悩まされる。
が、草太がずっと寄り添ってくれる(好きになるポイント②。①はイケメンであること)。戸締まりをするたびに呪いが弱くなり背丈が伸びていくので、美少年から美男子(イケメン)への変化も分かりやすくなる。
これなら全国の老若男女も納得の恋に発展しそうだ(イスの姿だと全国のおばあちゃんが納得せんのよ)。
芹澤のための、伏線ギャグ
宮城から愛媛に向かう船。ここで芹澤のための伏線ギャグを入れておきたい。
日が沈み、自販機で夜食を買うことにした鈴芽と草太。
草太「鈴芽さん、これ何?」
鈴芽「自動販売機。好きなものを買えるの。草太くんは、どれがい──」
草太「シーフード!」
どれがいい?と聞く前に草太が指で示したのはカップ麺だった。即答だった。てっきりパンかおにぎりを選ぶものだと思っていたけれど……。そんなに好きなんだ。でも草太さんの好みを知ることができて、ちょっと嬉しい。
鈴芽「シーフードかぁ。好きなんだね」と言って自販機のボタンを押す。ピッっと音がなるのと同時だった。
草太「あと、板チョコ!」
(さりげなくスポンサー企業に協力する姿勢を取り入れる。ここでは日進のカップ麺、明治の板チョコなどにしたが、ぶっちゃけ何でもいい。ただし、草太が閉じ師としてアウトドアで訓練をしていたときに、よく食べていた非常食になるカップ麺や板チョコ(チョコは怪しいか)が好きという設定にした。実際にカップ麺と板チョコが同じ自販機で売られているのかは不明)
甲板のハシゴの下に座る二人。月明かりが海を綺麗に照らしている。
板チョコを半分にする草太。しかしうまく半分に割れず、大きいほうと小さいほうに分かれてしまった。
草太「はい、これあげる!」
ほんの少し迷った挙げ句、鈴芽に差し出したのは大きいほうの板チョコだった。草太の優しさに、鈴芽はクスッと笑った。まあでも、買ったのは私なんだけどね。
鈴芽「ありがと。草太くん、優しいね」
カップ麺と板チョコの相性ってどうなんだろうなぁ、多分太っちゃうよねと思っていたら、草太が口に小さなチョコを加えたままカップ麺の蓋を開け始めた。まさか同時に食べるの?
草太「うん。ぼく、鈴芽さんすきだから」
唐突なストレートな表現に、鈴芽は少しだけ頬を赤らめた。
(中盤の設定は後日、詳しく書きたい。草太は旅を進むにつれて身長と記憶が徐々に元に戻り始める。ただし、公式設定どおり、草太は要石になる。要石になる直前で鈴芽と同じ17歳まで成長。鈴芽は草太を要石に変えたダイジンに「大っきらい!」と言う。ダイジンしぼむ)
【クライマックス】母親との再開、というファンタジー
ここから芹澤・環に会う。東北へ向かう。
東北に近づくにつれ、鈴芽の頭痛は徐々に痛みを増していく。母親との思い出がフラッシュバックする。そして宮城の自宅で絵日記を見つけて「3がつ11にち」の黒塗りを見た瞬間に、すべてを理解する。
大好きな母親がいたことを。そして震災で亡くなったことを。
鈴芽は自宅付近の扉(4歳のときに迷い込んだ扉)から常世へ入り、ついに母親を見つける(母親はしぼんだダイジンの看病をしていた)。最後に見た日から全く変わらない大好きな母親がそこにいた。常世は、すべての時間が同時にあるのだ。
(ただこのままだと、4歳の鈴芽と17歳の鈴芽が会う感動シーンがなくなってしまう。あとで修正したい。できるか?)
抱きしめ合う親子。12年ぶりの母親との再開に泣き叫ぶ鈴芽。
先程、死者を蘇らせる唯一の方法を知った鈴芽は、目の前にいる母親を現世に連れ戻したい欲望に取り憑かれる。母親に必死の説得・懇願を試みる。
けれど、そこは母親。なんやかんやで鈴芽は説得される。「あなたには、もう大切な人(草太)がいるでしょう?」的なやつだ。母親なので娘のことはお見通しである(娘に対する母親の愛が視聴者に分かりやすく伝わる)。ここで明確に鈴芽自身が、草太が好きであると自覚する。
突如、ミミズが暴れ出す。現世に出ていこうとする(公式設定どおり、宮崎と東京で要石が抜けたから)。それを阻止しよう試みるダイジン(母親に看病してもらったので愛を感じ、しぼみ解除)とサダイジン。だが苦戦し、空に舞い上がったミミズから落ちる。鈴芽が間一髪滑り込みでダイジンをキャッチする。
ダイジン「すずめ、どうして(助けたの)? ぼくのこときらいっていった」
鈴芽「もうこれ以上、誰も失いたくないの。たとえ(草太を要石にした)あなたでも、私は傷付いてほしくないの」
※ダイジンが鈴芽の愛を感じる。再び鈴芽を好きになる
鈴芽は要石になった草太を発見し、向かう。
為す術が見つからない鈴芽。「そうだ、(ずっと寄り添ってくれた)草太さんの代わりに、私が要石になる!」と言い、身体が徐々に要石になっていく。
鈴芽に駆け寄るダイジン。
ダイジン「すずめ、すき。すずめは、そうたのことすき。だから、(草太の代わりに)ぼくが、要石になる」
ダイジンが要石になることを決意し、鈴芽を引き剥がす。今度はダイジンが徐々に要石になっていく。
小さな丘状地帯から転がり落ちる鈴芽。
鈴芽「ダイジン!」
ここで再び母親が登場。要石になりかけているダイジンを引っ張りだし助ける。代わりに母親が要石になりかける(常世はすべての時間が同時にあるという理由から、死者でも要石になれるという強引な設定)。
母親は、生前に叶わなかった「鈴芽にもう一度会いたい」という願いを叶えた上に、草太・ダイジンに対する鈴芽の思い・行動を見て、「すでに死んだ私に囚われる必要はない。この子なら必ず立派な大人になっていく」と確信する。
ダイジンはすぐさま母親に駆け寄るも、制止される(咄嗟に母親に駆け寄るシーンを入れることで、ダイジンに対する鈴芽と視聴者のイメージがプラス変わる。ダイジンは先程看病してくれた母親も好きなので助けたい)。
母親「あなた(ダイジン)も行って。鈴芽を守ってちょうだい」
鈴芽「お母さん!どうして!お母さんが要石になってしまう!他に方法があるはずよ!これじゃあまた会えなくなっちゃう!」
母親「いいえ(他に方法はないと悟る)。私はずっと鈴芽のそばにいるよ。いたのよ。だから今日会えたの。これは、奇跡なの」
鈴芽は、母親を今助けてしまうと、また大地震が起こり4歳の頃の自分と同じように悲しむ人が大勢出てしまう未来を想像する。最終的に鈴芽は「母親を助けたいけれど、現世にいる人たちのため(と、これまで自分を助けてくれた人たちのため)に、それはできない」と自ら決意する。
ついに鈴芽は、あの日の母親の死を受け止める。
母親「忘れないで。未来なんて怖くない。もうあなたは、大丈夫だから」
強烈な光を発するとともに母親が要石になる。草太が元の姿に戻る(ダイジンの呪いも消滅する)。
駆け寄る鈴芽。何度も呼びかけても起きない草太。死んでしまったのかと思い、泣き出す鈴芽。
最後に鈴芽が草太キスをする。草太、息を吹き返す(ここは逆白雪姫ファンタジー。「勝手にキスするな、犯罪だ」と炎上するだろうけれど。ちなみに原作の白雪姫は王子のキスで目覚めるといった設定はない。ディズニーのせい)。
そうして鈴芽は母親を置いて、草太とダイジンと一緒に常世を後にする。
母親が要石となりミミズの勢いは収まりつつあるものの、それまでの勢いで後ろ扉から現世に出ていこうとする。鈴芽・草太・ダイジンは急いで扉に向かい、間一髪でミミズより先に現世に出る。
すぐさま振り向き、扉を閉める。
なんかかしこみかしこみ呪文を言って、鈴芽が鍵を差し込む。草太は後ろから鈴芽の右手をサポートする。
鈴芽「お返しします!」
草太「お返し申す!」
ガチャン。ミミズを閉じ込めることに成功し、戸締まり完了。
芹澤ギャグ、伏線回収
現世に戻った一行。扉の前で待っていた環。
鈴芽は環に、母親に会ったことを伝える。環は困惑するもこれまでの不思議な出来事を見ているので、素直に受け入れる。
環に抱きつく鈴芽。「今までありがとう(泣)」的なことを言い、これまでのギクシャクとした関係も解消する。
遅れて芹澤も登場(ちょっとギャグ)。鈴芽・草太・ダイジンと再開する。芹澤の手にはコンビニで買ったであろう全員分の非常食があった。その中にシーフード味のカップ麺と板チョコもあった(伏線回収。芹澤は草太の好きな食べ物を知っている。仲が良いというエピソード)。ついでキャットフードもあった。
芹澤良いやつすぎる!
鈴芽の友達2人
宮崎に戻る鈴芽。
駅の踏切で、鈴芽のクラスメート二人と出会う(最初に鈴芽と挨拶していた同級生)。
実はもの凄く心配されていた鈴芽(スマホのLINEで何件も着信履歴があった)。「(出かけている間、連絡できなくて)ごめん」と素直に謝り「でも私は、もう大丈夫だから」そう言って、明日からまた学校に行くと伝える。
女の子2人「鈴芽、なんか変わったよね!前よりも目がキラキラしてる」的なことを言う(鈴芽が客観的にも成長した・恋をした?ことが分かるシーン)。
この女の子2人との会話シーンを挟むことで、鈴芽が普通の女子高生の一人であることを再び視聴者に再度認識させることができる。普段の鈴芽に人望があることも分かる。
【エンディング】ダイジンと魔女の宅急便
翌日。学校に向かう鈴芽(家の玄関を掛けるシーンから始まる)。
自転車に乗り、長い下り坂を降りていく。
鈴芽「今日も快晴だって。もう9月なのに、まだまだ暑い日が続きそうだねぇ」
自転車の前カゴに座っているダイジン(作中一番のほっこりギャグ!)に向けて話しかけていた(ダイジンが鈴芽から離れないので、鈴芽が仕方なく前カゴに乗せた)。
そのとき、坂の下から草太が現れる。東京から宮崎に、鈴芽に会いに来てくれたのだ。
ダイジンは草太を見るやいなや、自転車から降りて鈴芽の家に帰ってしまう(草太がまだちょっと嫌いというギャグ。猫らしいツンデレな感じ)。
ここでナレーションが入る。「私はこの人に会って変わったんだ、成長したんだ」的なやつ。
草太「ただいま」
鈴芽「おかえり」
ダイジンが鈴芽の家に到着(ジャンプしたときに「ニャッ」という声を出す)。鈴芽の部屋の窓際で風鈴の音ともに昼寝を始める。
揺れるカーテンの先、鈴芽の机の上には、母親の写真が飾られていた(ちゃんと過去を克服した)。
めでたしめでたし
センチメンタル
ところでダイジンは、本来は鈴芽に拒絶されたとき死ぬ運命だったけれど、常世に住む人間(鈴芽の母親)に助けてもらった代償として徐々に人間の言葉を喋れなくなったという「魔女の宅急便」を彷彿させる設定も良いかもしれない。もちろん鈴芽は喋れなくなったことを知っている設定だ。センチメンタルな感じ、悪くないだろう?
疲れたので続きは後日。でも、どう?わりと良くない?
コメント
コメント一覧 (3件)
代償がアルファロメオは笑えますw
架空のやつ普通におもしろくて草
音楽のことはよくわかりませんが確かに君の名はや天気の子に比べると物足りなさを感じました
すずめの涙いいですよね!